[写真連載] 徐台教が歩く南北分断の爪痕 (1)北進統一路碑
[写真連載] 徐台教が歩く南北分断の爪痕 (1)北進統一路碑
  • 徐台教(ソ・テギョ) 記者
  • 承認 2021.01.01 23:30
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本紙編集長・徐台教が、韓国内外にある朝鮮半島の南北分断を象徴する場所やモニュメント、建物などを訪ね撮影した写真を、説明と共に公開する。月2〜3回更新。
「北進統一路」碑。2020年12月26日、徐台教撮影。
「北進統一路」碑。2020年12月26日、徐台教撮影。

ソウルから北側に約50キロ。京畿道(キョンギド)抱川(ポチョン)市の、国道43号線が地方道372号線と分岐する地点の片隅に、「北進統一路」と刻まれた碑が立っている。

●北進統一とは

北進統一。「武力を用い北側に進むことで南北を統一する」という統一論は、韓国初代大統領の李承晩(イ・スンマン)が朝鮮戦争(1950年6月勃発、53年7月休戦)の間じゅう唱え続けたものだ。

だが、背景は複雑だ。李承晩は1949年の2月、訪韓した米陸軍省のロイヤル長官に「自身は装備と規模の面で韓国軍を増強」させることを願い、韓国軍の増強が実現したら「すぐに北進する」と述べている。

これに先立つ1月15日には、1945年から4年間、在韓米軍司令部として機能していた米24師団が解体されていた。このように「北進」という言葉には、韓国からの撤収を行う米軍への牽制の意味が強く込められていた。「北進」を主張することで、撤収に伴う韓国軍への補償や安全保障への確約を得ようとしたのだった。

この言葉を李承晩が始めて公にしたのは1949年9月30日のことだ。その数日後の10月8日には武力を使えば「3日以内に平壌を占領する確信がある」とも述べた。だが、こんな李承晩の立場は、米国にとって無謀なものでしかなかった。

そしてこれは、米国における韓国の印象を悪化させた。その結果、1950年1月の米アチソン国務長官によるいわゆる「アチソン・ライン」演説、つまり台湾と韓国を米国の防衛線外とする発言が生まれた。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金日成をはじめとする中ソはこれを「韓国の放棄」と受け止め、同年6月25日の北朝鮮による「南進」の一つの要因となった。「北進統一」論の思わぬ逆効果だった。

1950年10月29日、平壌で演説する李承晩大統領。大統領記録館提供。
1950年10月29日、平壌で演説する李承晩大統領。大統領記録館提供。

●朝鮮戦争期とその後

国土の8割以上を失い追い詰められた韓国は、9月15日の仁川上陸作戦を機に反転攻勢に出て、9月28日にソウルを奪還する。だが李承晩は38度線を越えて北朝鮮へと進撃する。

10月19日には平壌を占領し、自らも29日、現地を訪れ「統一した自由祖国のために、正義のために闘うことを」演説で誓ったのだった。中朝国境の川、鴨緑江・豆満江まで到達した米韓軍(国連軍)はその後、中国軍(人民義勇軍)の参戦により押し戻され、翌年1月には再びソウルが奪われる。

その後、3月に再びソウルを取り戻すと一進一退の中、停戦交渉が始まり53年7月に停戦となる。現実的な北進統一が不可能となったのは明らかだったが、李承晩はこの時期にも盛んにこれを唱え停戦に反対し続けた。

53年4月にはアイゼンハワー米大統領に送った書簡で「韓国の力だけで戦争を続ける」とし、別の場所では「中共軍がわが疆土から出て行き統一して平和になることが、私たちが『死中求生』する唯一の道」と述べている。

停戦後の自国の安全保障を念頭に置いたこんな李承晩の強硬な姿勢はついに、停戦後1953年10月の「米韓合同防衛条約」締結に結びつく(発効は翌54年)。これは今なお「米韓同盟」の根幹を成す条約として機能している。

このように「北進統一」という主張は李承晩にとって国を失う危機をもたらし、その後は韓国の安全保障を支える条約の締結に結びついた。まさに李承晩の代名詞と言える。

18年9月に取り壊される際の姿。碑の土台が現在とは異なる。聯合ニュース提供。
18年9月に取り壊される際の姿。碑の土台が現在とは異なる。聯合ニュース提供。
建立当時の様子。戦争記念館提供。
建立当時の様子。戦争記念館提供。

●下野後に建てられた碑

説明が長くなった。高さは土台まで含めると、5メートルほどと、それほど大きくない。片方の側面には「檀紀四二九三年五月五日竣工」と、もう片方には「第一一一一野戦工兵団建設」とある。

碑を建てた理由は、韓国の戦争記念館によると「祖国統一を祈願し、勝共思想を鼓吹するため」だという。陸軍第5師団に所属する野戦工兵団だ。

檀紀4293年とは、1960年のこと。5月に李承晩はすでに大統領ではなかった。再選された同年3月の大統領選挙が不正選挙だったとして、全国で学生たちと教授が中心になって立ち上がった『4.19革命』により、4月26日に下野していたからだ。

この碑はそれからわずか10日後に建てられたことになる。当時は、許政(ホ・ジョン)外務部長官が大統領代行を務めていた。許政もまた、当時の施政者の多くにならい反共精神の持ち主だった。当時は北朝鮮の方が豊かで強い時代でもあった。こうした事情もあり、李承晩下野後の混乱の中でも建立計画がそのまま進められたのだろう。

碑の傍らを通る国道43号線には頑丈な防空壕が設けられ、碑と共に休戦中であるという現実を通行人に伝えてきた。本来の目的に合わない広告スペースとして活用されもしたが、ついに2018年9月から10月にかけて取り壊された。

当時は、4月に文在寅大統領と金正恩委員長の間で11年ぶりの南北首脳会談が行われ、6月には米朝首脳会談が、そして9月には平壌で再び南北首脳会談が行われるという南北関係が大きく改善された年だった。さすがに時代おくれということだ。

「護国路」とも呼ばれる国道43号線を北上すると、朝鮮戦争最大の激戦地の一つだった江原道(カンウォンド)鉄原(チョロン)郡にたどり着く。その先は北朝鮮だ。これが「北進統一路」の所以となる。

筆者が訪問した昨年12月当時、碑は懸垂幕に遮られ、国道を通り過ぎる人からは見えないようひっそりと立っていた。李承晩が建前と本音の双方で望んだであろう「北進統一」は、こうして歴史の表舞台から退場した。だが今なお、朝鮮戦争は休戦状態のままである。

広告の懸垂幕が碑を遮り、通行人からは見えない。筆者も通り過ぎてしまい、探し回る羽目になった。2020年12月26日、徐台教撮影。
広告の懸垂幕が碑を遮り、通行人からは見えない。筆者も通り過ぎてしまい、探し回る羽目になった。2020年12月26日、徐台教撮影。

【場所はこちら】


(参考文献)
李承晩政府と張勉政府の統一政策比較(2013、白鶴淳)
南北韓統一方案の展開と収斂(2001、沈之淵)
 


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